ジンテーゼ。

クソ女の良識と倫理観に欠けたお話。きっと名前はちさとちゃん。

疑わしきは罰せよ。

 

Don’t spit up in the air―it’ll fall on your nose. 

 

さて。因果応報、悪因悪化、善因善化。輪廻は存在していて、いずれ報われる。そんな多幸的且つ将来性に溢れた楽観視に対して頭痛がする次第です。

 

どれだけ努力をしても報われないものは報われないし、報われなかったその横を平気な顔して通り過ぎる人間もいるわけで。

元彼を引きずるとか、そういう短絡的な話では無く。過去との決別とか、そこまで大仰な物でもなく。ただただ、盲目的だったあの時という一区切りを正当化したかっただけの話。

 

関係性というものに対して未練ってものは大体付き纏って、私はだからこそ嫌悪とか不快なんていう感情が湧き上がるまではあの選択肢を取らなかったわけで。

キスが死んだ人間や陶器みたいに冷たく感じて、触る手の居心地の悪さに吐き気がして。ようやく、嗚呼、解放されたなって吐き出せた訳なんですよね。

 

未練とか情とか、消極的な継続の真綿で首を絞められる感覚。同僚の可愛い女を優先して、麻雀をするために彼女を部屋から平気で追い出すような人間に対して入れ込んでいた恥、みたいな。

段々と追い詰められて行く感覚、尊厳とか、意欲とか、期待とか全部を子供がアリを潰すみたいに悪意なくすり潰されて。それでも何時か、なんて日頃抱きもしない無根拠の希望に縋り付いて後戻り出来なくなった。そんな話。

 

自我とか、そういった物とは無縁の隷属とか支配に似た関係値。指折り数えて走馬灯みたいに浮かぶ大事な思い出は、退屈そうな横顔と、デリ嬢みたいに通って、一通りの事を終えては見えた遠くでタバコを吸う背中と、傾いた機嫌に媚びる様に下手にでた惨めさと、返ってくる適当な肯定と、途切れ掛けて居心地の悪い空間と、自分の日常を語る権利も持たない、あの三年で知れたのはパチンコの知識と私が居ない日常で、あの人がただただ楽しく過ごしているっていう事だけだった気がする。

 

恋って、もっと明確に幸せな物だと思っていた気がする。人並みの幸せとか、小さい頃から刷り込まれた理想よりは、もっと受動的で、身勝手な物だったけど。

優先順位という物が可視化されていなくて本当に良かったと思う。純然たる事実として、私が1番になることはなくて、私は彼のささやかな日常に敗北にして、敵わない事を反芻するように言い聞かせる。無価値になった約束を忘れて、会いたいとか、そういった言葉を喉元に押し込めて笑って、そうやって都合の良い女としての価値を高めて行く。

 

ぐちゃぐちゃに踏み潰された自我をどうにかして再形成してを繰り返して、都合の良い言葉を集めて全部自分が悪かったんだと言い聞かせて、なんて。三年の中で、二ヶ月に収まるしか会えなかった人間に向けて甲斐甲斐しく世話を焼く躾のされた犬として飼い殺される為の準備をしていたんだなあ、

私が、あの時足を止めてたら一体どのくらい減っていたんだろう。

 

笑えるくらい蓋をした「きらいになれたら」を書き殴っては無かったことにして。擦り減って関係を崩し掛けて、その関係の綻びを埋めるだけの延命処置の嘘に舞い上がって、そんなその場しのぎの、分かりきった泥舟みたいな一瞬の幸せに「次は、」なんて縋り付いて。切り取った一瞬に生かされて、学習能力も無く。分かりきった次の不幸に浸って。

 

何処かできっと全部分かってたんでしょうけど、放棄する選択肢や咎める事も出来たんでしょうけど。

何故それが出来なかったって、それを認める事は必死に報われる事を信じてあるかも分からない期待に向かって蜘蛛の糸を辿ってた自分を否定することだったからなんでしょうかね、

 

ふと重なるように思い出すそんな走馬灯が、過去だから美化されてるのか、本当にそう見えていたかは知りませんけど、そうやってフィルターがかかったように確かにその時の一瞬の幸せがあったということは、浸ってた不幸に映えてしまったというか、

自嘲しか出ないくらい、幼稚で、浅はかで、愚かだったなあと思う訳なんですよね。

 

愛してる、っていう文字列と現実のダブルバインドと、不毛で上下関係みたいな恋愛と、手に入らない幸せ。

この先自分がどれだけ幸せという話をしたとしても癌のように残る痼りをここに置いておこうなんていう、話。

 

踏み台にした人間の幸せが願えるかと口をついて出ましたけど、

今更、フィルターを掛けていた人間が被害者ヅラをしているのも中々、笑える話なんですよね。

 

 

環境の立ち位置というものが誰かの付属品であることに疲れを感じてきてしまいました。